『北千島占守島国端崎の戦闘』その4

時間的にどの位経過しているのか全然分からず、唯何とかして通信連絡が途絶しているので城ケ崎と連絡を取る方法がないものか、上陸地点が小泊海岸だから、城ケ崎なら連絡が取れるのではないかと野呂軍曹が適応小隊長と相談したが、連絡に果たして誰を出した…

『北千島占守島国端崎の戦闘』その3

八月十八日の戦闘開始とその後の経過 八月十八日〇〇.五〇頃不寝番の「何か小泊海岸の方で艦船のエンジンか何かの音がする」との声で全員起床し、速応小隊長の指示で山本分隊長外下砲車斑は全員障地内に入りすぐ射撃体制に入った。外は暗く濃霧のため視界は○…

八月十五日の動き

十五日の敗戦については伝えられておられなかったが、近近重大な放送があることを予想していた。山本軍曹の記憶では速応小隊長は「十八日に将校会同があるのでその時重大の指示があるらしい」と言っておられたが、その時点ではまだ敗戦の事は知らなかったよ…

開戦前の国端の情況

九十一師団の作戦任務の変更から国端守備に重点を置いた第二中隊も、二十年四月頃編成替えが行われ、前田中隊長の本部は村上崎に移り、国端崎には適応少尉指揮の下十九名、野砲一門が配置されてその守備に就いていた。 陣地は長い年月をかけ構築したため千島…

『北千島占守島国端崎の戦闘』その1

以下は先の投稿とは別の視点でかかれたものである。

第九十一師団の最終的防御体勢

「北の防人」その7

九、戦果および損害 占守島の戦いは、ほとんど交戦意欲のなかったわが第九十一師団が、ソ軍の奇襲攻撃を受けて防衛のため蹶起した戦いであった。戦闘は十数時間に過ぎないものであり、現地守備隊は後退配備というよりもむしろ疎散な遊撃配備であったが、水際…

「北の防人」その6

七、ソ軍の後続兵力展開と師団の攻撃再開 師団が戦闘を停止し停戦交渉に任じている間、ソ軍は八月十九日一ぱいかかって火砲、弾薬車両の揚陸を終了した。この頃国端崎の速応小隊は加瀬谷第一砲兵隊長の命により射撃を中止してしまったので、ソ軍の揚陸作業は…

「北の防人」その5

五、攻撃停止 停戦 ・軍使の派遣 方面軍命令に基ずき、師団長は司令部付きの長島大尉を軍使としてソ軍に派遣するとともに、八月十八日十六時を以て攻撃を中止し防御に移転するよう命令を発した。 長島大尉は約十名から成る護衛小隊を率い、十八日十五時ころ…

「北の防人」その4

四、占守島の戦闘 ・国端崎付近の戦闘 八月十八日一時過ぎ、突然ロバトカ岬のソ軍長射程砲の射撃が再び瀾始され、兵士たちのゆめが破られた。夜明けの早い夏の北千島ではあるが外はまだ薄暗い。砲撃は次第に激しくなった。 二時頃突如村上大隊に「海上エンジ…

「北の防人」その3

二、第九十一師団の情況判断 ソ軍の動きは、我が監視哨の目撃や小泊崎に挫傷しているソ連船に対しカムチャツカ半島から砲撃が加えられたりソ連機三機が国端崎上空を通過したり、カムチャツカ半島東岸に小型舟艇多数の移動があったが、師団長や幕僚は北千島の…

北千島占守島の対ソ戦闘推移

一、ソ軍進攻前の状況 北千島は天候、気象、海象の関係上冬期の上陸作戦は如何に装備優秀な米軍であっても相当の困難が予想され、南方のように一年中作戦が可能とは言い得なかった。 第九十一師団は、米軍がいずれの時期に来攻しても最大限半年持久したなら…

北千島占守島の対ソ戦闘推移

昭和二十年八月 十四日 ロバトカより小泊岬砲撃 十七日二二時四五分 ロバトカより小泊岬・国端岬砲撃 村上大隊戦闘配置、本部を四嶺山に 十八日〇時三〇分 ロバトカより砲撃 上陸舟艇の来襲 村上大隊、戦闘開始命令 国端岬・小泊岬・竹田岬訓練台の各陣地よ…

『北の防人』第九十一師団戦闘状況を贈るに当って。

前段の戦闘状況は、吾が第一砲兵隊長であられた加瀬谷部隊長の手記を、当時部隊本部に居られた中町仁郎氏(下士官候補教官)が『北の防人』第九十一師団第一砲兵隊部隊史として編纂発行された本の中から、同氏のお許しを得て、ソ連の記録部分や専門的な部分…

「北の防人」その1

北千島占守島にてソ連軍と戦った祖父の記録です。 いまはすでに書いた記録を入力していくだけですが、いずれ祖父が思い出したことを紙に書いてもらい私がはてなへ掲載するという形式で進めていきたいと考えています。ネコ七 http://www.forgetmenot.jp/