北千島占守島の対ソ戦闘推移

一、ソ軍進攻前の状況

 北千島は天候、気象、海象の関係上冬期の上陸作戦は如何に装備優秀な米軍であっても相当の困難が予想され、南方のように一年中作戦が可能とは言い得なかった。
 第九十一師団は、米軍がいずれの時期に来攻しても最大限半年持久したならば、わが得意とする冬季戦闘の威力を発揮出来る強味があるものと考えていた。
 北千島に於いて作戦適期と考えられるのは、第一期融氷期(五、六月)第二期霹明けの(八、九月) の二時期だけであった。
 昭和二十年八月にはいると作戦準備は概成の域に達し各部隊は「恃有待」 の綽々たる心境で、鋭意作戦準備に邁進する状況となった。
 このような状況の中で師団はソ連参戦の報に接したが、かねて覚悟したことであって、ますます緊張し、いよいよ勇戦敢闘を期するところであった。特に占守島東北部はソ領カムチヤツカを呼指の間に臨み上陸戦闘最適の地であったため監視を増強し厳戒を加えた。
 当時師団の兵力は独立歩兵一〇コ大隊、師団速射砲隊、第一砲兵隊、第二砲兵隊、工兵隊、防空隊、戦車聯隊、輕重隊その他、総兵二三、000名で主力を以て幌莚海峡の配備をとっていた。
 師団は昭和二十年八月、方面軍から「十五日正午重大放送があるから各部隊は各部署において洩れなく拝聴せよ」という通達に接した。各部隊はその内容がよく聞き取れず、夜にいたっても奮戦激励のお言葉を賜ったものと解釈していた。
 然し事の余りにも意外なことに「感極まって言うところを知らず」 の有様だった。
 大招渙発以後北千島方面における米軍の活動は完全に終熄し、当面のソ情もまた何等の変化がなく極めて平穏無事であった。
 終戦に伴う事務的事項は方面軍の指示に基づき着々と進められた。師団長が特に考慮したことは次の二点であった。
 第一は北千島は如何になるであろうか。勿論米軍が接収にくるであろう。その時の処置について。
 第二に将兵の内地帰還についてである。
 こうして師団長は八月十七日大隊長以上の各部隊長、直轄各部隊長外関係機関の関係者を集め命令指示を与えた。
 『万一、ソ軍が上陸する可能性がないでもないが、この場合は戦闘を行なわず、爾後の命令指示に従い行動せよ』という指示があった。
 部隊長会同会議中「対岸ロバトカ岬から砲撃を受く」との報告が国端崎からもたらされた。初めはソ軍の演習か威嚇射撃かと軽く考えていた部隊長たちも夕刻まで続く砲声に長く相原にとどまるわけにもいかず、急ぎ守備地に帰還したのであった。
 会同終了後師団長は方面軍から 「一切の戦闘行動停止、ただし止むを得ない自衛行動を妨げず、その完全徹底の時期を十八日十六時とする」という命令及び「今次終戦による戦地の軍人軍属はこれを俘虜として取り扱わず」という指示に接し、直ちにこれを各部隊に伝達した。各部隊に於いては師団命令により十七日一切の築城作業を中止し、内地帰還に備えて新品の被服の交付が行なわれた。兵器もまた逐次処分され、海中投棄やその準備が実施された。はるかカムチャツカにあるソ軍が終戦後の十八日あえて上陸作戦を行なうなど深く考えも及ばなかったのである。