「北の防人」その4

四、占守島の戦闘

・国端崎付近の戦闘

 八月十八日一時過ぎ、突然ロバトカ岬のソ軍長射程砲の射撃が再び瀾始され、兵士たちのゆめが破られた。夜明けの早い夏の北千島ではあるが外はまだ薄暗い。砲撃は次第に激しくなった。
 二時頃突如村上大隊に「海上エンジン音聞こゆ」との至急報が国端崎監視哨からもたらされたのである。村上大隊長は前日八月十七日の団隊長会同に於いて師団長から「村上大隊は最前線だから軽挙妄動せぬよう。また軍師が来たら紛争を起こさず直ちに連絡せよ」と特に注意され、また部隊に帰着後「敵軍が攻撃して来たら自衛戦斗を妨げず、ただし停戦は十八日十六時とする」という連絡を受けていた。
 大隊長はこれは危うしと察し、大隊を戦闘配備につくよう命令するとともに、この旨を師団に報告した。砲撃により眠りからさめていた各中隊は、急ぎ戦闘準備を整え配置についた。
 島は一面の濃霧に包まれていた。国端崎からは「敵輸送船らしいものを発見」 「敵上陸用舟艇を発見」 「敵上陸、兵力数千人」と急報が相次いだ。もはや軍師でないことは明らかである。村上大隊長は直ちに 「射撃開始」を命じた。
 ソ軍は奇襲上陸を企図したもようで、わが軍が射撃を開始すると同時に射撃を開始した
 国端崎、小泊崎を含む竹田浜に配置されていた村上大隊弟三中隊、速射砲三門、大隊砲三門、臼砲四門、野砲二門(第一砲兵隊第二中隊速応小隊)で二時三十分頃上陸する敵を発見し早くも応戦を開始した。夜明けとはいえまだ薄暗く霧は深い。数十米位しか先が見えない。奇襲から立直った水際陣地守備対の反撃は激烈であった。霧中射撃も既に準備されていたところ敵の上陸に備えての長い訓練の成果はたちまち現れた。ソ軍の頭上には多年鍛えぬかれた鉄槌が容赦なくくだされたのである。
 大隊主力は既に配置につき、大隊の射撃に呼応して竹田浜及び国端崎西側海岸一帯にソ軍の砲撃が約一時間続けられた。たちまち有線通信が途絶し、大隊と旅団との無線もまた故障してしまった。

・水際戦闘の精華

 竹田浜に上陸を企図したソ軍に対するわが守備隊の反撃は見事なものであった。ソ軍の上陸を察知するや国端崎の砲兵、小泊崎の速射砲、大隊砲は竹田浜両側から激烈な砲火をソ軍に浴びせ、側防砲兵、側防火券としての威力を遺憾なく発揮し、所在の第三中隊もまたこれに協力した。ために撃沈、擱座された船舶は確認しただけでも十三隻以上に達し、戦後に於けるソ軍将校の述懐と合わせても、水に浸らされた兵力は三、000以上、戦死者もまた同数を下らないものと推定され、ソ軍の指揮は終日混乱状態となったのである。
 わが軍が反撃を途中で中止しなかったならば上陸したソ軍は水際で撃滅されたであろうことは推察に難くない。
 実際に両陣地とも最も堅固に構築された独立性を有する地下棲息洞窟陣地であり、また敵の主上陸地点と予想される竹田浜一帯に対しては夜間、濃霧時であっても、正確な射撃ができるように施設と訓練が実施されていた。
 これに加えて数会戦分の弾薬を貯蔵し守兵はいたずらに玉砕を求めず、あくまでこの堅い陣に拠って敵に絶望的出血を強要する決意に燃えていたからである。

・第九十一師団の反撃

 八月十八日未明、杉野旅団長から「敵は早暁二時頃艦砲支援の下に竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、国籍不明」 の電報に接した師団長はとりあえず二時十分全兵団に戦闘戦備を下命するとともに二時三十分、戦車第十一聯隊長池田大佐に対し工兵隊の一部を併せ指揮し、国端崎方面に急進しこの敵を撃滅するよう命令した。同時に歩兵第七十三旅団長杉野少将に対しても出来るかぎりの兵力を結集しこの敵を撃滅するよう命令した。
 戦車連隊は発令一時間後千歳台付近から発進、占守島北東端地区に於いて激戦を展開した。戦場を覆う霧は戦況の把握を困難にしたが、敵はようやくソ軍であることが判明した
 師団長は攻撃によりソ軍の上陸を阻止するに決し、池田戦車聯隊を杉野旅団長の指揮下に入れ同旅団を速やかに大観台東西の戦付近に展開して攻撃に移らせるとともに、在幌莚の師団主力の占守島集中を命令した。
 北千島の防御は根本的には持久戦の思想から水際直接配備を排した面式防御配備であったが、この度の戦いは自衛戦闘であるので「ソ軍何するものぞ、進んで撃滅してやるぞ」という気持ちもあって、攻撃に転じたものと思う。

・戦車第十一聯隊の反撃

 戦車聯隊は独立戦車第二中隊を編組内に収め六コ戦車中隊、一コ整備中隊一式中戦車十九、九七式中戦車二〇、九五式軽戦車二五合計六四輌からなっていた。
 聯隊は八月十八日戦車を海に沈める予定であったところ師団の命令に接し急ぎ出動準備に着手した。
 四時頃ソ軍は既に四嶺山の村上大隊を攻撃中であった。池田聯隊長は「これより直ちに突撃を開始する、祖国の弥栄えを祈る」と師団長に対し報告したのち日章旗を大きく振って突撃を命令した。各車は聯隊長を中心に展開、攻撃を開始した。轟音と砲煙が四嶺山を包んだ。その南から竹下大隊が軽戦車を先頭に攻撃を開始した。
 ソ軍はわが攻撃により竹田浜の方面に退却したが我もまた戦車二七両を失い、池田聯隊長、丹羽勝文少佐が戦死し中隊長以下の損害も少なくなかった。

・杉野旅団長の作戦指導

 八月−八日未明ソ軍を撃滅すべき命令を受けた杉野旅団長は蔭の澗方面には尚敵上陸の危険があるものと判断し、地形上考慮の少ない沼尻の竹下大隊に敵の東翼を求めて攻撃するよう命ずるとともに、及川地区の数田大隊に国端崎地区に前進を命じた。
 師団第−砲兵隊には「砲兵隊直轄の山砲二コ中隊を大観台北方地区に進出させ、所在歩兵部隊と協力してこの敵を撃滅せよ」という命令が下達された。
 数田大隊はとりあいず二コ中隊を率いて前進を開始し、また加瀬谷第一砲兵隊長は隊長直轄の山砲二コ中隊を自動車両により逐次大観台付近に進出させた。
 戦車聯隊の攻撃また竹下大隊の攻撃によってソ軍は海岸に釘付けとなり一歩も内陸に前進できないもののようであった。
 この間師団はその全力をあげてソ軍の撃滅を企図し幌莚島から歩兵部隊の主力山砲部隊等を占守島に急進させており、また連絡のため師団参謀長を派遣された。出撃命令を受けた艦攻二機は七時頃片岡基地を発進して竹田浜で揚陸中の輸送船を霧の中で捉え、撃沈または擱座二以上という戦果をあげて帰来した。

・水際撃滅の態勢成る

 北千島特有の濃霧は断続浮動、戦勢混沌として容易に判明しなかったが、十八日午後に入り、師団長はようやく次のような状況を把握した。
 わが先遣隊は勇猛果敢な突撃を敢行し概ね四嶺山の線付近から火力戦斗を開始、爾後敵線を突破しつつ肉薄蹂躙戦に移行した。敵兵力は目下三コ大隊を下らないものの如くこれに対し大きな損害をあたえはしたが、わが損害もまた少なくないようであった。また国端崎及び小泊崎の洞窟陣地を死守した部隊の水際付近に於ける側射火力ならびに上陸後の敵にたいする背射火網は真に強大な威力を発揮しているようであった。
 在幌莚島の歩兵部隊の大部は占守島に向かい、両旅団並列して戦闘する態勢が準えられつつあった。ここに於いて師団長は逐次態勢を整理し漸次優勢な兵力を以て一挙にソ軍を水際に殲滅する方針を採った。然るに戦闘酣のころ「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」との方面軍の命令に接したのである。