「北の防人」その5

五、攻撃停止 停戦

・軍使の派遣

方面軍命令に基ずき、師団長は司令部付きの長島大尉を軍使としてソ軍に派遣するとともに、八月十八日十六時を以て攻撃を中止し防御に移転するよう命令を発した。
 長島大尉は約十名から成る護衛小隊を率い、十八日十五時ころ大観台を発進した。師団の意図するところは、まず現在の線に於いて両軍とも速やかに停戦したのち、武器引渡しの方法について交渉するにあった。
 軍使一行は彼我相対時する戦線を通過しようとしたが、白旗を掲ぐる一行に不法にもソ軍は猛射を浴びせ、死者続出、ために長島大尉は二〇三〇頃単身敵陣に向かった。
 既に杉野旅団は朝来の戦闘によりソ軍を海岸線ニー四粁の距離に圧迫していたが、軍使派遣に併せて師団から「若し敵が進出するならばその場に於いて自衛戦闘をせよ」との命令を受領し、十六時所命行動に転じた。
 しかしソ軍は戦闘を中止することなく、夜間に入ってから随所に攻撃を続行してきたので無用の損害発生を避けた各部隊は諸々に於いて後退した。軍使長島大尉は夜半に至るも帰来せず、師団長は戦闘停止の協定がソ軍上級司令部から現地軍に伝達されているか疑わしい状態にあると考えざるを得なかった。ソ軍は我が軍の攻撃停止に乗じ攻撃を再興、四嶺山西方にまで進出して来たのである。

・第五方面軍の指導

 ソ軍の占守島上陸は直ちに第五方面軍に急報された。方面軍に於いてはあまりのことに暫し茫然の態であった。
 九十一師団がいまにもソ軍を水際に撃滅しそうな気配を知り萩参謀長は「これはいけない。早く止めさせるようにせよ」と指示し、戦闘停止の命令を打電されたのである。
 方面軍は右処置に続いて陸軍中央部に打電し、連合軍側に対する停戦折衝を要請した。

・両軍相対峠状態に入る

 随所に小戦闘が繰り返されつつ十九日を迎えた。この日未明中ノ台から山田大隊が大観台の戦闘司令所に到着、旅団命令により竹下大隊と配備交代に着手した。
 山田大隊長はここで初めて敵はソ軍であることを知った。長年満ソ国境にいた同大隊長は闘魂がわきたったという。
 旅団は一歩でも退けば停戦時の地域を失うことを考慮し、地形の不利にかかわらず、ひたしら一歩でも陣地を保持する態度で戦闘を指導した。このため大きな兵力があっても、これを全正面にわたり配置するような格好となり、ソ軍の突破に対しては極めて脆弱な態勢であったが、そのままの態勢を維持し、ソ軍の主攻正面を判断しながら対応策を考慮せざるを得なかった。彼我の距離は近いものは五〇米に満たず、互いに散兵壕を堀ながら攻撃に備え、ときどき撃ちあう銃声は各所にあがった。
 竹下大隊では大隊長が重傷(後戦死)し先任中隊長が指揮に任じた。火力戦闘は終息したが戦場一帯は依然緊張した空気に包まれ、銃声は途絶えなかった。
 ソ軍は逐次その兵力を増大しているようで、また相原地区に対する爆撃を依然くりかえしたソ軍はこの間国端岬、小泊崎に対する攻撃を続行した。

六、戦い終わる

 八月十八日夜敵中に入った長島軍使は十九日朝になっても遂に帰還しなかった。そこで十九日朝杉野旅団長は旅団司令部付きの山田大尉及び木下少尉、日魯漁業の清水通訳を軍使として派遣することにした。
 山田大尉以下はソ軍に撃たれる事無く国端崎に到着し軍指揮官アルチューヒン大佐に会った。ソ軍の回答は一五〇〇、正式軍使と竹田浜で会うということで、山田軍使は一四〇〇、大観台に右報告を持って帰還した。
 この報告により師団長は、杉野旅団長に対しソ軍との停戦交渉に当たるよう命じた。
 杉野旅団長は、柳岡参謀長、鈴木防空隊長、加瀬谷第一砲兵隊長を伴い、指定時刻よりやや遅れてソ軍の陣地に赴き、小泊崎ふきんで交渉にあたった。
 わが軍の要求はまず停戦であるのに対し、ソ軍は停戦即武装解除を要求し、交渉がかみ会わなかったが、柳岡参謀長は無用の流血を避けるためソ軍の要求を入れ大観台に帰遷した時刻は日没を過ぎた二〇〇〇頃であった。
 師団長はこの報告を聞き停戦は承知したが、武装解除は承認しなかった。
 八月十九日もまた彼我相対時のうちに暮れようとした。薄暮竹下大隊と配備を交替した山田大尉は敵の夜襲の企図を判断しこれに備うるところあり、果たして日没後四嶺山東方斜面より約一コ大隊のソ軍が夜襲して来た。大隊の火器火砲は一斉に火を噴き一兵をも陣地に入るを許さなかった。
 師団長は停戦即武装解除というソ軍の要求を拒否するに決したが、無用の流血を避けるため八月二十日朝再度参謀長を敵方に派遣し、北千島日本軍最高指揮官署名、当面ソ軍最高指揮官宛声明書を交付させ、交渉に任じさせた。即ち彼我共に停戦し武器引渡しの交渉するが、敵にして依然進攻するにおいては自衛のため戦闘を行い、断固として貴軍を撃滅すべき事を声明したのであった。
 参謀長は単身再度敵陣に赴いたが、この日は帰来しなかった。