開戦前の国端の情況

 九十一師団の作戦任務の変更から国端守備に重点を置いた第二中隊も、二十年四月頃編成替えが行われ、前田中隊長の本部は村上崎に移り、国端崎には適応少尉指揮の下十九名、野砲一門が配置されてその守備に就いていた。
 陣地は長い年月をかけ構築したため千島一と言われるだけに、岩盤洞窟で堅固に造られてあり、陣地の上部には観測用の陣地が一米位の土を被って造られ、同様に第二小隊の方にもあってお互いに通路で結ばれていた。第一第二小隊の砲台は三米位の通路で結ばれていて、その中間に弾薬庫があり、やや第一小隊よりの方に観測所への昇降通路があった。以前の守備体制では速応小隊は小泊海岸を、第二小隊は城ケ崎方面を向いておったのであるが、配備の変更に伴い火砲は一門となり、その任務は小泊海岸に上陸する敵を迎撃する水際作戦であった。当時速応小隊の日課は射撃訓練と陣地補強、通行船舶の監視が主で、射撃訓練はたとえ目標が見えなくとも命中させることが出来るように訓練され、また発射速度の向上のために信管の取り付けに特別の工夫を凝らすなど真剣なものであった。これが後の戦闘に多大の効果を挙げることが出来た原因と確信しております。陣地補強は、弾薬、食料の保管設備の外居住設備を造るため昼夜兼行の作業が行われて、下士官以下毎日大ハンマーで一人交代までに三百回たがねを打ち込み発破の穴を掘りダイナマイトを仕掛けるという、必死の補強作業を継続していた。
 国端崎の配備は村上の大隊の歩兵一ケ小隊(片桐少尉指揮正味兵力ニケ分隊)とそれに臼砲一ケ分隊(坂田軍曹指揮)、師団速射砲隊一ケ分隊(佐藤軍曹指揮) これに速応小隊の野砲一門で編成され守備隊長は片桐少尉でした。この外、指揮系続が異なる師団より派遣の向地監視斑へ小川中尉指揮)航空隊の航空情報珪(古城軍曹指揮) がおり総員八十名位の兵力であったかと思う。
 八月上旬(戦闘の十日間位前)の或る霧の深い朝であったが、ソ聯艦船を霧間に発見何事ぞとばかり小隊長以下約四千米の海上を監視致しました。それがソ聯軍の上陸地点の偵察であったようで、その後このような状態が四−五度続き小隊では特に濃霧時及び夜間のエンジン音に注意するように命ぜられた。