「北の防人」その7

九、戦果および損害

 占守島の戦いは、ほとんど交戦意欲のなかったわが第九十一師団が、ソ軍の奇襲攻撃を受けて防衛のため蹶起した戦いであった。戦闘は十数時間に過ぎないものであり、現地守備隊は後退配備というよりもむしろ疎散な遊撃配備であったが、水際撃滅を文字どおり現出したものであった。水際陣地守備部隊や池田戦車聯隊などの反撃により、上陸を企図したソ軍約三〇〇〇は水際達者前に舟艇を撃沈され辛うじて海岸にたどりついたが、死傷またほぼ同数を下らないと言われている。
 ソ連政府機関誌イズベスチヤ紙は、「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。八月一九日はソ連人の悲しみの日である」とのべている。いかにわが守備隊が激烈な防戦をしたかは 「大祖国戦争史」 でも「千島に於ける激しい戦い」 という表現を採り、水際達着時の様相を色彩版の絵画をもって示しているところでも了解されるのである。
 わが軍の損害は死傷約六〇〇名、野砲二、十加一、十五加一、高射砲一、戦車十数両破壊と言われている。しかし武器解除に引き続く部隊の分割、作業大隊の編成、他方面への転用抑留により詳細に調査ができずに今日に至っているのが実情で痛恨の外はない。
 然しながら終戦後におけるこの果敢な自衛戦闘は.日本軍の真価をソ軍ばかりでなく、ソ軍との対比において世界にまで知らしめ、さらにソ軍の武力占領を慎重にさせた効果は大であったと言い得よう。

九、ソ軍進攻の意図は如何

 ソ軍は何故終戦三日後の八月十八日、それも未明、あえて占守島に進攻したであろうか。この疑問に答えてくれるのが次のソ軍戦史の記述である。
 極東軍総司令部は、この方面の作戦の遂行を遅延させてはならなぬという強い要求に応えて現実の作戦を計画し実行しなければならなかった。この作戦遂行の遅延許されぬとの要求は、航空基地および海軍基地を千島列島内に設定しようとする米国の要求を阻止するためにあった…………………ともあれソ軍は至短期間に千島を日本軍の手から開放し、この問題に終止符を打ってしまったのである。
 右は「日本軍が抵抗をやめるまで攻撃を続行せよ」というソ軍統帥部の司令や「日本軍が抵抗をやめなかったのでソ軍は攻撃を続行した」とするソ軍戦史の記述とは全く次元の異なるものであることは言うまでもない。
 前述のようなソ軍の意図はもとより当時のわが軍として知り得ないことであった。
 只師団は、兵団の受けた終戦処置に関する上司の命令と世界に冠たる大陸軍の名誉こに稽へ、冷静な理性に立って敢然戈をとったものである。