「北の防人」その6

七、ソ軍の後続兵力展開と師団の攻撃再開

 師団が戦闘を停止し停戦交渉に任じている間、ソ軍は八月十九日一ぱいかかって火砲、弾薬車両の揚陸を終了した。この頃国端崎の速応小隊は加瀬谷第一砲兵隊長の命により射撃を中止してしまったので、ソ軍の揚陸作業は円滑に実施されたわけである。
 柳岡参謀長の停戦交渉とかかわりなく、兵力の集結を終えたソ軍は八月二十日大観台北方に展開し攻撃準備を始めた。占守街道正面を守備中の山田大隊長は八時頃「四嶺山東方稜線上にソ連兵の移動が見え、戦車が見える」との警戒兵の確認、これを旅団長に報告するとともに左第一線中隊に対戦車防御の重点を置き配備を増強した。旅団に対し肉攻用爆薬の増強補強を要求したところ「四嶺山付近のソ軍に対する射撃を待て」との指示を受けた。
 ソ軍は山田大隊の東側地区からわが地域内進入を企図し攻撃を発起してきたが、右第一線中隊付近からの歩兵砲と右後方野口大隊からの機関銃により進入出来ず後退した。別のソ軍は左第一線橋口大隊に向かい攻撃を開始し、ために小戦闘が展開された。
 小戦闘が繰り返され八月二十日が過ぎた。大観台北方のソ軍は展開を完了しているもののようであった。柳岡参謀長は帰来せず、このまま無為に終わらんか師団が危殆に瀕することは明らかであった。
 師団はこの敵を撃退し、もって師団の安全を確保することに決し、八月二十一日六時をもって攻撃を再開する旨命令した。命令伝達が終わった直後、師団は方面軍から停戦、武器引渡し容認に関するめいれいに接したのである。

八、停戦、武装解除

 八月二十一日参謀長柳岡大佐は軍使長島大尉及びソ軍将校数名を帯同して大観台の帰還した。ここで再び交渉が行なわれ、師団の企図する方向に交渉まとめられ、一切の戦闘行動を完全に停止、師団は八月二十三日、二十四日にわたり武装を解除した。

「北の防人」その5

五、攻撃停止 停戦

・軍使の派遣

方面軍命令に基ずき、師団長は司令部付きの長島大尉を軍使としてソ軍に派遣するとともに、八月十八日十六時を以て攻撃を中止し防御に移転するよう命令を発した。
 長島大尉は約十名から成る護衛小隊を率い、十八日十五時ころ大観台を発進した。師団の意図するところは、まず現在の線に於いて両軍とも速やかに停戦したのち、武器引渡しの方法について交渉するにあった。
 軍使一行は彼我相対時する戦線を通過しようとしたが、白旗を掲ぐる一行に不法にもソ軍は猛射を浴びせ、死者続出、ために長島大尉は二〇三〇頃単身敵陣に向かった。
 既に杉野旅団は朝来の戦闘によりソ軍を海岸線ニー四粁の距離に圧迫していたが、軍使派遣に併せて師団から「若し敵が進出するならばその場に於いて自衛戦闘をせよ」との命令を受領し、十六時所命行動に転じた。
 しかしソ軍は戦闘を中止することなく、夜間に入ってから随所に攻撃を続行してきたので無用の損害発生を避けた各部隊は諸々に於いて後退した。軍使長島大尉は夜半に至るも帰来せず、師団長は戦闘停止の協定がソ軍上級司令部から現地軍に伝達されているか疑わしい状態にあると考えざるを得なかった。ソ軍は我が軍の攻撃停止に乗じ攻撃を再興、四嶺山西方にまで進出して来たのである。

・第五方面軍の指導

 ソ軍の占守島上陸は直ちに第五方面軍に急報された。方面軍に於いてはあまりのことに暫し茫然の態であった。
 九十一師団がいまにもソ軍を水際に撃滅しそうな気配を知り萩参謀長は「これはいけない。早く止めさせるようにせよ」と指示し、戦闘停止の命令を打電されたのである。
 方面軍は右処置に続いて陸軍中央部に打電し、連合軍側に対する停戦折衝を要請した。

・両軍相対峠状態に入る

 随所に小戦闘が繰り返されつつ十九日を迎えた。この日未明中ノ台から山田大隊が大観台の戦闘司令所に到着、旅団命令により竹下大隊と配備交代に着手した。
 山田大隊長はここで初めて敵はソ軍であることを知った。長年満ソ国境にいた同大隊長は闘魂がわきたったという。
 旅団は一歩でも退けば停戦時の地域を失うことを考慮し、地形の不利にかかわらず、ひたしら一歩でも陣地を保持する態度で戦闘を指導した。このため大きな兵力があっても、これを全正面にわたり配置するような格好となり、ソ軍の突破に対しては極めて脆弱な態勢であったが、そのままの態勢を維持し、ソ軍の主攻正面を判断しながら対応策を考慮せざるを得なかった。彼我の距離は近いものは五〇米に満たず、互いに散兵壕を堀ながら攻撃に備え、ときどき撃ちあう銃声は各所にあがった。
 竹下大隊では大隊長が重傷(後戦死)し先任中隊長が指揮に任じた。火力戦闘は終息したが戦場一帯は依然緊張した空気に包まれ、銃声は途絶えなかった。
 ソ軍は逐次その兵力を増大しているようで、また相原地区に対する爆撃を依然くりかえしたソ軍はこの間国端岬、小泊崎に対する攻撃を続行した。

六、戦い終わる

 八月十八日夜敵中に入った長島軍使は十九日朝になっても遂に帰還しなかった。そこで十九日朝杉野旅団長は旅団司令部付きの山田大尉及び木下少尉、日魯漁業の清水通訳を軍使として派遣することにした。
 山田大尉以下はソ軍に撃たれる事無く国端崎に到着し軍指揮官アルチューヒン大佐に会った。ソ軍の回答は一五〇〇、正式軍使と竹田浜で会うということで、山田軍使は一四〇〇、大観台に右報告を持って帰還した。
 この報告により師団長は、杉野旅団長に対しソ軍との停戦交渉に当たるよう命じた。
 杉野旅団長は、柳岡参謀長、鈴木防空隊長、加瀬谷第一砲兵隊長を伴い、指定時刻よりやや遅れてソ軍の陣地に赴き、小泊崎ふきんで交渉にあたった。
 わが軍の要求はまず停戦であるのに対し、ソ軍は停戦即武装解除を要求し、交渉がかみ会わなかったが、柳岡参謀長は無用の流血を避けるためソ軍の要求を入れ大観台に帰遷した時刻は日没を過ぎた二〇〇〇頃であった。
 師団長はこの報告を聞き停戦は承知したが、武装解除は承認しなかった。
 八月十九日もまた彼我相対時のうちに暮れようとした。薄暮竹下大隊と配備を交替した山田大尉は敵の夜襲の企図を判断しこれに備うるところあり、果たして日没後四嶺山東方斜面より約一コ大隊のソ軍が夜襲して来た。大隊の火器火砲は一斉に火を噴き一兵をも陣地に入るを許さなかった。
 師団長は停戦即武装解除というソ軍の要求を拒否するに決したが、無用の流血を避けるため八月二十日朝再度参謀長を敵方に派遣し、北千島日本軍最高指揮官署名、当面ソ軍最高指揮官宛声明書を交付させ、交渉に任じさせた。即ち彼我共に停戦し武器引渡しの交渉するが、敵にして依然進攻するにおいては自衛のため戦闘を行い、断固として貴軍を撃滅すべき事を声明したのであった。
 参謀長は単身再度敵陣に赴いたが、この日は帰来しなかった。

「北の防人」その4

四、占守島の戦闘

・国端崎付近の戦闘

 八月十八日一時過ぎ、突然ロバトカ岬のソ軍長射程砲の射撃が再び瀾始され、兵士たちのゆめが破られた。夜明けの早い夏の北千島ではあるが外はまだ薄暗い。砲撃は次第に激しくなった。
 二時頃突如村上大隊に「海上エンジン音聞こゆ」との至急報が国端崎監視哨からもたらされたのである。村上大隊長は前日八月十七日の団隊長会同に於いて師団長から「村上大隊は最前線だから軽挙妄動せぬよう。また軍師が来たら紛争を起こさず直ちに連絡せよ」と特に注意され、また部隊に帰着後「敵軍が攻撃して来たら自衛戦斗を妨げず、ただし停戦は十八日十六時とする」という連絡を受けていた。
 大隊長はこれは危うしと察し、大隊を戦闘配備につくよう命令するとともに、この旨を師団に報告した。砲撃により眠りからさめていた各中隊は、急ぎ戦闘準備を整え配置についた。
 島は一面の濃霧に包まれていた。国端崎からは「敵輸送船らしいものを発見」 「敵上陸用舟艇を発見」 「敵上陸、兵力数千人」と急報が相次いだ。もはや軍師でないことは明らかである。村上大隊長は直ちに 「射撃開始」を命じた。
 ソ軍は奇襲上陸を企図したもようで、わが軍が射撃を開始すると同時に射撃を開始した
 国端崎、小泊崎を含む竹田浜に配置されていた村上大隊弟三中隊、速射砲三門、大隊砲三門、臼砲四門、野砲二門(第一砲兵隊第二中隊速応小隊)で二時三十分頃上陸する敵を発見し早くも応戦を開始した。夜明けとはいえまだ薄暗く霧は深い。数十米位しか先が見えない。奇襲から立直った水際陣地守備対の反撃は激烈であった。霧中射撃も既に準備されていたところ敵の上陸に備えての長い訓練の成果はたちまち現れた。ソ軍の頭上には多年鍛えぬかれた鉄槌が容赦なくくだされたのである。
 大隊主力は既に配置につき、大隊の射撃に呼応して竹田浜及び国端崎西側海岸一帯にソ軍の砲撃が約一時間続けられた。たちまち有線通信が途絶し、大隊と旅団との無線もまた故障してしまった。

・水際戦闘の精華

 竹田浜に上陸を企図したソ軍に対するわが守備隊の反撃は見事なものであった。ソ軍の上陸を察知するや国端崎の砲兵、小泊崎の速射砲、大隊砲は竹田浜両側から激烈な砲火をソ軍に浴びせ、側防砲兵、側防火券としての威力を遺憾なく発揮し、所在の第三中隊もまたこれに協力した。ために撃沈、擱座された船舶は確認しただけでも十三隻以上に達し、戦後に於けるソ軍将校の述懐と合わせても、水に浸らされた兵力は三、000以上、戦死者もまた同数を下らないものと推定され、ソ軍の指揮は終日混乱状態となったのである。
 わが軍が反撃を途中で中止しなかったならば上陸したソ軍は水際で撃滅されたであろうことは推察に難くない。
 実際に両陣地とも最も堅固に構築された独立性を有する地下棲息洞窟陣地であり、また敵の主上陸地点と予想される竹田浜一帯に対しては夜間、濃霧時であっても、正確な射撃ができるように施設と訓練が実施されていた。
 これに加えて数会戦分の弾薬を貯蔵し守兵はいたずらに玉砕を求めず、あくまでこの堅い陣に拠って敵に絶望的出血を強要する決意に燃えていたからである。

・第九十一師団の反撃

 八月十八日未明、杉野旅団長から「敵は早暁二時頃艦砲支援の下に竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、国籍不明」 の電報に接した師団長はとりあえず二時十分全兵団に戦闘戦備を下命するとともに二時三十分、戦車第十一聯隊長池田大佐に対し工兵隊の一部を併せ指揮し、国端崎方面に急進しこの敵を撃滅するよう命令した。同時に歩兵第七十三旅団長杉野少将に対しても出来るかぎりの兵力を結集しこの敵を撃滅するよう命令した。
 戦車連隊は発令一時間後千歳台付近から発進、占守島北東端地区に於いて激戦を展開した。戦場を覆う霧は戦況の把握を困難にしたが、敵はようやくソ軍であることが判明した
 師団長は攻撃によりソ軍の上陸を阻止するに決し、池田戦車聯隊を杉野旅団長の指揮下に入れ同旅団を速やかに大観台東西の戦付近に展開して攻撃に移らせるとともに、在幌莚の師団主力の占守島集中を命令した。
 北千島の防御は根本的には持久戦の思想から水際直接配備を排した面式防御配備であったが、この度の戦いは自衛戦闘であるので「ソ軍何するものぞ、進んで撃滅してやるぞ」という気持ちもあって、攻撃に転じたものと思う。

・戦車第十一聯隊の反撃

 戦車聯隊は独立戦車第二中隊を編組内に収め六コ戦車中隊、一コ整備中隊一式中戦車十九、九七式中戦車二〇、九五式軽戦車二五合計六四輌からなっていた。
 聯隊は八月十八日戦車を海に沈める予定であったところ師団の命令に接し急ぎ出動準備に着手した。
 四時頃ソ軍は既に四嶺山の村上大隊を攻撃中であった。池田聯隊長は「これより直ちに突撃を開始する、祖国の弥栄えを祈る」と師団長に対し報告したのち日章旗を大きく振って突撃を命令した。各車は聯隊長を中心に展開、攻撃を開始した。轟音と砲煙が四嶺山を包んだ。その南から竹下大隊が軽戦車を先頭に攻撃を開始した。
 ソ軍はわが攻撃により竹田浜の方面に退却したが我もまた戦車二七両を失い、池田聯隊長、丹羽勝文少佐が戦死し中隊長以下の損害も少なくなかった。

・杉野旅団長の作戦指導

 八月−八日未明ソ軍を撃滅すべき命令を受けた杉野旅団長は蔭の澗方面には尚敵上陸の危険があるものと判断し、地形上考慮の少ない沼尻の竹下大隊に敵の東翼を求めて攻撃するよう命ずるとともに、及川地区の数田大隊に国端崎地区に前進を命じた。
 師団第−砲兵隊には「砲兵隊直轄の山砲二コ中隊を大観台北方地区に進出させ、所在歩兵部隊と協力してこの敵を撃滅せよ」という命令が下達された。
 数田大隊はとりあいず二コ中隊を率いて前進を開始し、また加瀬谷第一砲兵隊長は隊長直轄の山砲二コ中隊を自動車両により逐次大観台付近に進出させた。
 戦車聯隊の攻撃また竹下大隊の攻撃によってソ軍は海岸に釘付けとなり一歩も内陸に前進できないもののようであった。
 この間師団はその全力をあげてソ軍の撃滅を企図し幌莚島から歩兵部隊の主力山砲部隊等を占守島に急進させており、また連絡のため師団参謀長を派遣された。出撃命令を受けた艦攻二機は七時頃片岡基地を発進して竹田浜で揚陸中の輸送船を霧の中で捉え、撃沈または擱座二以上という戦果をあげて帰来した。

・水際撃滅の態勢成る

 北千島特有の濃霧は断続浮動、戦勢混沌として容易に判明しなかったが、十八日午後に入り、師団長はようやく次のような状況を把握した。
 わが先遣隊は勇猛果敢な突撃を敢行し概ね四嶺山の線付近から火力戦斗を開始、爾後敵線を突破しつつ肉薄蹂躙戦に移行した。敵兵力は目下三コ大隊を下らないものの如くこれに対し大きな損害をあたえはしたが、わが損害もまた少なくないようであった。また国端崎及び小泊崎の洞窟陣地を死守した部隊の水際付近に於ける側射火力ならびに上陸後の敵にたいする背射火網は真に強大な威力を発揮しているようであった。
 在幌莚島の歩兵部隊の大部は占守島に向かい、両旅団並列して戦闘する態勢が準えられつつあった。ここに於いて師団長は逐次態勢を整理し漸次優勢な兵力を以て一挙にソ軍を水際に殲滅する方針を採った。然るに戦闘酣のころ「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」との方面軍の命令に接したのである。

「北の防人」その3

二、第九十一師団の情況判断

 ソ軍の動きは、我が監視哨の目撃や小泊崎に挫傷しているソ連船に対しカムチャツカ半島から砲撃が加えられたりソ連機三機が国端崎上空を通過したり、カムチャツカ半島東岸に小型舟艇多数の移動があったが、師団長や幕僚は北千島の将来は米軍と強い関係をもつことはあっても、ソ連とは全く関係ないものと信じきっていた。また常識から考えても、終戦ソ連がこのような行動をとるとは疑ってもみなかった。加えて方面軍命令によって示された 「八月十八日十六時………………… 」 は師団において連合軍と大本営との協定であり連合軍第一線部隊にも徹底している筈と考えていた。

三、現地各部隊の状況

 国端崎の村上大隊長の判断もソ軍が攻撃して来ることはまずあるまいというものであった。国端崎の小隊長には電話により、軍師が来るかもしれないからよく注意して監視を続行するように指示した。敵の攻撃を予想しての特別警戒は何等指示していない。
 これということもなく一七日の夜に入ったが幾分気になると見えて夜半になって万一のため一部の部隊に対敵戦備につくよう命令し警戒を強化する程度であった。
 加瀬谷第一砲兵隊長はつぎのように回想している。
 十七日夜おそく、突然師団から命令を受領した。『ソ軍がもし上陸したならば、これを邀撃せよ』 と。私は日中の命令が変更された理由、何のための邀撃か判らなかったが、とにかく部下部隊に命令を下達した。「敵軍上陸に際しては、これを水際に撃滅すべし」と。然し先の命令の「撃つな」と後の命令の 「撃て」 と混淆し徹底しない部隊があったようだ。
 師団参謀水津少佐は次のように回想している。
 水際陣地は暗夜でも射撃出来るように訓練された精度も良好であったので、第一砲兵隊に邀撃を命じた。
 このような命令が、師団各部隊のどの範囲にまで下達されたか明らかでない。万一の場合の指針と警戒の強化ぐらいのものであったろう。
 対ソ戦闘に最も関係深い北部遊撃隊(村上少佐指揮の主力村上大隊) の戦闘計画は、概要次の通りであった。

  • 敵の上陸に当たっては極力水際において打撃を与える。
  • 敵浸入後は神出鬼没敵を奇襲しその前進を遅滞せしむるとともに、その後方部隊を攻撃して攪乱する。

遊撃隊の配置は次の通りであった。

  • 国端崎 第三中隊の一コ小隊 野砲二門 大隊砲一
  • 小泊崎 速射砲二門
  • 小泊崎北方五百米の台地 大隊砲二 速射砲一 ほかに第三中隊の一コ小隊
  • 豊城川付近 臼砲一コ小隊(四門)
  • 四嶺山 大隊本部、第三中隊(兵力一コ小隊) 十五加一門 十加一門
  • 大観台 第一中隊、第四中隊、歩兵砲一 速射砲一
  • 標高一一二高地 第二中隊
  • 村上崎 野砲一門

戦闘指導要領

  • 大隊長は四嶺山で指揮をとる。
  • 四嶺山、国端崎、小泊崎は最後まで死守する。
  • 敵が四嶺山、国端崎、小泊崎の陣地を包囲攻撃して来たときは第一、第二、第四中隊は敵の側面或いは背面からこれを奇襲する。
  • 敵が四嶺山、国端崎、小泊崎、の陣地に一部を残し主力を以て複郭陣地方面に南下した場合は各陣地ならび第一、第二、第四中隊は少数兵力から成る斬込部隊を編成して敵後方部隊を反復奇襲する。

村上大隊長は次のように回想している。
 各陣地の死守は地形上極めて困難である。それは地形が一般に平坦地で大した起伏がなく、樹木も小さな這松位で、これも燃料として使用していたので大分減少していた。このため隠蔽したところに洞窟を作ることが難しい。又斬込隊がどの程度成果をあげ得るかということであった。

北千島占守島の対ソ戦闘推移

一、ソ軍進攻前の状況

 北千島は天候、気象、海象の関係上冬期の上陸作戦は如何に装備優秀な米軍であっても相当の困難が予想され、南方のように一年中作戦が可能とは言い得なかった。
 第九十一師団は、米軍がいずれの時期に来攻しても最大限半年持久したならば、わが得意とする冬季戦闘の威力を発揮出来る強味があるものと考えていた。
 北千島に於いて作戦適期と考えられるのは、第一期融氷期(五、六月)第二期霹明けの(八、九月) の二時期だけであった。
 昭和二十年八月にはいると作戦準備は概成の域に達し各部隊は「恃有待」 の綽々たる心境で、鋭意作戦準備に邁進する状況となった。
 このような状況の中で師団はソ連参戦の報に接したが、かねて覚悟したことであって、ますます緊張し、いよいよ勇戦敢闘を期するところであった。特に占守島東北部はソ領カムチヤツカを呼指の間に臨み上陸戦闘最適の地であったため監視を増強し厳戒を加えた。
 当時師団の兵力は独立歩兵一〇コ大隊、師団速射砲隊、第一砲兵隊、第二砲兵隊、工兵隊、防空隊、戦車聯隊、輕重隊その他、総兵二三、000名で主力を以て幌莚海峡の配備をとっていた。
 師団は昭和二十年八月、方面軍から「十五日正午重大放送があるから各部隊は各部署において洩れなく拝聴せよ」という通達に接した。各部隊はその内容がよく聞き取れず、夜にいたっても奮戦激励のお言葉を賜ったものと解釈していた。
 然し事の余りにも意外なことに「感極まって言うところを知らず」 の有様だった。
 大招渙発以後北千島方面における米軍の活動は完全に終熄し、当面のソ情もまた何等の変化がなく極めて平穏無事であった。
 終戦に伴う事務的事項は方面軍の指示に基づき着々と進められた。師団長が特に考慮したことは次の二点であった。
 第一は北千島は如何になるであろうか。勿論米軍が接収にくるであろう。その時の処置について。
 第二に将兵の内地帰還についてである。
 こうして師団長は八月十七日大隊長以上の各部隊長、直轄各部隊長外関係機関の関係者を集め命令指示を与えた。
 『万一、ソ軍が上陸する可能性がないでもないが、この場合は戦闘を行なわず、爾後の命令指示に従い行動せよ』という指示があった。
 部隊長会同会議中「対岸ロバトカ岬から砲撃を受く」との報告が国端崎からもたらされた。初めはソ軍の演習か威嚇射撃かと軽く考えていた部隊長たちも夕刻まで続く砲声に長く相原にとどまるわけにもいかず、急ぎ守備地に帰還したのであった。
 会同終了後師団長は方面軍から 「一切の戦闘行動停止、ただし止むを得ない自衛行動を妨げず、その完全徹底の時期を十八日十六時とする」という命令及び「今次終戦による戦地の軍人軍属はこれを俘虜として取り扱わず」という指示に接し、直ちにこれを各部隊に伝達した。各部隊に於いては師団命令により十七日一切の築城作業を中止し、内地帰還に備えて新品の被服の交付が行なわれた。兵器もまた逐次処分され、海中投棄やその準備が実施された。はるかカムチャツカにあるソ軍が終戦後の十八日あえて上陸作戦を行なうなど深く考えも及ばなかったのである。

北千島占守島の対ソ戦闘推移

昭和二十年八月

十四日

ロバトカより小泊岬砲撃

十七日二二時四五分

ロバトカより小泊岬・国端岬砲撃
村上大隊戦闘配置、本部を四嶺山に

十八日〇時三〇分

ロバトカより砲撃
上陸舟艇の来襲
村上大隊、戦闘開始命令
国端岬・小泊岬・竹田岬訓練台の各陣地より猛射し、戦果甚大

二時ころ

四嶺山の十五加、ロバトカ砲台に射撃開始
四時ころこれを撃滅す。引続きロバトカ舟艇基地射撃

三時ころ

戦車一一聯隊、四嶺山に向かう

五時ころ

四嶺山に敵進出、戦闘は至近戟
ソ連軍、重火器を竹田浜に揚陸
戦車聯隊、四嶺山に突入。猛攻(工兵隊掩護)戦果甚大。聯隊長以下 多数戦死

五時十五分

女体山電探器材破壊し脱出

六時ころ

四嶺山、至近戦闘激甚
十五加五〇〇米射撃・竹田浜語頭堡射撃
竹下大隊、大観台へ進出し攻撃戦闘

七時ころ

艦攻四機反覆出撃、竹田浜の艦艇を攻撃
四嶺山の高射砲○距離射撃、戦車掩護射撃
竹田浜歩兵の切り込み

九時ころ

四嶺山十五加が破壊される
幌莚海峡に敵駆逐艦、輸送船団進攻
盤城の砲兵と飛行第五四戦隊これを撃退
一機は駆逐艦に突入撃沈
戦果、撃沈破七隻

十二時

竹下大隊、豊城川南側より戦闘加入

十三時ころ

敵、竹田浜に橋頭堡
数田・橋口・桜井・歩兵大隊・第一砲兵隊大観台、天神山に展開。
このころ一挙に全滅させる態勢にあり
幌莚海峡に敵駆逐艦海防艦、輪送船団進攻
盤城の砲兵と海軍飛行隊これを撃退
海軍機一機、海防艦に突入撃沈

十四時

数田大隊、双子山より戦闘加入

十五時ころ

四嶺山の村上大隊、戦闘指揮所付近で戦闘激し

十六時ころ

戦闘停止命令
軍使派遣するも進めず (長島大尉・木下少尉。牛谷通訳)
(十六時三十分、日魯漁業女子を六隻独航船で北海道に帰す)

二十時三十分

長島大尉、単身軍使として敵陣へ
戦闘停止中、敵来襲。竹下大隊長重傷
竹下大隊と山田大隊と交替
〜戦闘停止後ソ軍は四嶺山西側に進出〜

十九日五時三十分

山田大尉・木下少尉・清水通訳軍使として竹田浜へ。アルチューヒン大佐と会見

七時ころ

ソ連艦三隻幌莚海峡に接近、我が艦攻これを撃退

十六時ころ

竹田浜で対ソ接渉
杉野少将・柳岡参謀長・鈴木防空隊長・加瀬谷第一砲兵隊長・高橋師団副官・木下少尉・清水通訳
〜ソ軍停戦中、火砲弾薬の揚陸〜
日没後、山田大隊敵と戦闘し撃退

二十二時

村上大隊、十五加小隊四嶺山洞窟陣地より脱出。引続き188より四嶺山攻撃
〜敵は兵力増強〜

二十日 朝

柳岡参謀長、停戦協約破棄(武装解除の項)
再交渉に清水通訳
敵、大観台北方に展開
たびたび来襲するも山田・野口大隊これを撃破す

二十一日 六時

攻撃再開を命じた直後、北方軍より停戦・武器引き渡しの命あり

二十一日 朝

海軍艦攻、北海道標津に飛び戦況報告
陸軍一式戦闘機、三機北海道に向かう
幌莚海峡、ソ連艦上で正式調印

二十三日

武装解除、占守は三好野飛行場

  • 我方戦死  約  七〇〇名
  • ソ軍戦死  約 三、〇〇〇名

『北の防人』第九十一師団戦闘状況を贈るに当って。

 前段の戦闘状況は、吾が第一砲兵隊長であられた加瀬谷部隊長の手記を、当時部隊本部に居られた中町仁郎氏(下士官候補教官)が『北の防人』第九十一師団第一砲兵隊部隊史として編纂発行された本の中から、同氏のお許しを得て、ソ連の記録部分や専門的な部分を除き、一般の方でも読んでお分リ戴けるように編集し直しし、戦闘部分を重点に記したものです。従って当時戦闘に参加された方々、或るいわ専門的な方がお読みになると、色々とご批判もあろうかと思います。
 又後段は、私の実体験を記しましたが、何せ四十五年振りに纏めてみたものものですから、多分に記憶違いの部分もあろうかと思いますが、戦後五十年を経過して見て、今までこうした北千島に関する状況が、あまリ新聞等に発表されなかったし、この頃千島返還運動が行なわれても、主として南千島のことは記事にされるが、北千島のことは一向にマスコミニ取り上げられません。以上のことから、一体自分たちのやってきたことは何だったのかという思いと、五十年を節目に、北の守りに就いて犠牲になられた数多くの方々の、せめてもの慰霊にならないかと考えて、発表することに致しました。